姉妹都市交流
アメリカ合衆国カリフォルニア州リンゼイ市
人口
約10,000人
面積
10.2㎢
産業
オレンジ、オリーブ、柑橘類の栽培
姉妹都市交流の概要
1971年、カリフォルニア州リンゼイ市のキワニスクラブ(国際的な奉仕団体)が奉仕目標の案として、姉妹都市提携を提案し、リンゼイ市の隣のバイセリア市が日本の三木市と姉妹都市提携をしていたことに注目し、多くのつてを頼り、三木市とバイセリア市の姉妹都市提携に貢献した武原誠郎氏に繋がりました。武原氏は、当時の小野市長林幸雄氏を知っており、小野市が姉妹都市事業を進める意思があることを確かめた上で、小野市をリンゼイ市に紹介したことがきっかけで、姉妹都市事業が進められることになりました。
当時の日本人にとっては、アメリカは憧れの国で、各自治体がアメリカの都市と姉妹都市提携を結ぶことがブームとなっていた頃でしたから、小野市にとっても魅力的なお話でありました。交流が始まった翌年には、小野市政20周年記念行事として、リンゼイ高校の音楽使節団が100名と大人15名が来市され、ブラスバンドの演奏とチアガールたちが小野商店街をパレードしました。高校生たちの旅費の半額は、リンゼイ市民たちの寄付金で賄われ、残りの旅費を高校生たちが調達できるように彼らのアルバイトを探す手伝いをするなど、人口6000人のリンゼイ市では、市をあげての大計画だったそうです。今でも、リンゼイ市では、リンゼイ姉妹都市委員会が、旅費を募るバーベキューパーティを開いて、高校生の訪問団員の旅費の半分を負担しています。
当時の小野市では、115名のリンゼイ市民は市内のホスト家庭47軒に宿泊しました。言葉も文化も違う彼らを1週間も受け入れてくださった小野市のホスト家庭の皆様は大変だったことと思います。小野市からの初回の訪問団は81名もの大人数で、おそろいのブレザーを新調して行ったそうです。その後は、一年おきの相互派遣となり、訪問団員の人数も制限するなど、両市の話し合いを経て、現在の交流事業の形へとつながっていきました。
そこで、忘れてはならないのが、リンゼイ市在住で、姉妹都市事業にご尽力されてきた加来ゆり子氏です。日系人のご主人と共に、リンゼイ市内でスーパーマーケットを経営される傍ら、通訳やコーディネーターとしてボランティアで活動されてきました。小野市からは、「リンゼイ市姉妹都市親善特命大使」として感謝状を贈り、交流が始まった時から引退された2013年まで活躍されました。
第一回からの姉妹都市交流に参加した人たちが中心となって、自発的な民間団体の「リンゼイ友の会」を作り、のちに、市が主導の小野市国際交流協会となり、2013年にNPO法人小野市国際交流協会となりました。
当協会のルーツとなった、リンゼイ市との姉妹都市交流事業は、両市の市民たちの努力の賜物であり、時代や文化の違いを乗り越えて、これからもお互いの絆が続いていくこと、また現在コロナ禍のため、相互訪問が休止となっていますが、近いうちに交流が再開され、リンゼイ市の皆さんと再会できることを願っています。
姉妹都市交流のあゆみ
1971年 |
カリフォルニア州リンゼイ市の隣のバイセリア市が三木市と姉妹都市提携をしていたことから、両市に繋がりのある人物を介して、リンゼイ市を紹介された。 |
1973年 |
アメリカ カリフォルニア州リンゼイ市と姉妹都市提携。 |
1974年 |
相互訪問が始まる。小野市制20周年記念行事のため、リンゼイ高校音楽使節団100名が来市し、小野商店街をパレードした。 |
1984年 |
姉妹都市提携10周年記念として、リンゼイ市の記念碑と同じデザインの記念碑を市役所前に建立→2002年にひまわりの丘公園完成を機に移設。 交換教師の相互派遣スタート(2005年に終了) |
1987年 |
リンゼイ友の会が国際交流協会になり、市の主導となった。 |
1993年 |
姉妹都市提携20周年記念事業 市長公式訪問団 相互訪問 |
2000年 |
蓬莱市長就任時リンゼイ公式訪問 |
2003年 |
姉妹都市提携30周年記念事業 公式訪問団相互訪問 |
2004年 |
絵画交流スタート(2010年に終了) |
2013年 |
姉妹都市提携40周年記念事業 市長公式訪問団 相互訪問 |
市民の交流
- 訪問団の相互派遣 1974~2019 (コロナ禍のため、2020年から休止中)
小野市からの訪問団 23回 約450名
リンゼイ市からの訪問団 25回 約350名 - 交換教師の相互派遣 1985~2005
小野市から 10回 20名
リンゼイ市から 12回 22名
市役所のホームページにも過去の姉妹都市交流についてのページがあります。
⇒ 姉妹都市